Raising:資金調達

メッセージ

 

ビジネスジェット専用ゲートの待合室に案内され、簡単な説明を受けたあと、同行していたスタッフの1人がテレビをつけた。ニュース番組では、キャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げている。

「本日8月5日の東京株式市場、日経平均は前週末比4451円安の3万1458円で取引を終えました。下げ幅は、ブラックマンデーの翌日1987年10月20日の3836円を上回って過去最大となり…」

過去の痛ましく恐ろしい思い出を払拭するように、手の甲で額の汗を拭い去る。室内の空調はよく効いているが、長袖のアンダーウェアの上に長袖のシャツを着て、ボタンを一番上まで留めているせいか少し暑い。カバンの鍵を開け、中から未開封のペットボトルの紅茶を取り出してテーブルに置き、タブレット端末でアナリストからの業務メッセージを開いた。添付されている報告書に目を通しながら、これから向かう国Xも暑いだろうなあ…なんてぼんやり物思いにふけっていると、もう何年も前の水底のように青くて暗い記憶がふと蘇ってきた。

 

自己紹介も兼ねて、まずは簡単に身内の昔話でもしようかと思う。私の祖先は代々、アジアを拠点に国際的に事業を展開するコングロマリット、財閥系企業のオーナーである。現在のグループ総裁である祖父は、地位と権力と資産を存分に活かし、とある共産主義国家の与党に資金や情報を提供して政治に意見する、いわゆるフィクサーとなった。祖父は「学校というのは資本主義下において使われる側の人間がいくところであって、うちの一族には不要である」という考えのもと、自身の血の繋がった子孫や優秀な遺伝子を持った養子に対し、幼少期から一族独自の様々な教育を施した。その子孫たちの中から突出した才能のある者を選別して、早ければ10代のうちから『使う側』として各国で活躍させることで、世界中に堅牢なネットワークを築いている。私の父は、そんな祖父の飼い犬として日本の関西で金融業を営んでいた。母は京都にて古くから続く名家の長女で、資金繰りに困っていた実家の指示で父と政略結婚し、私を生んで3年ほどで亡くなった。

母の死後、私は家令や使用人の世話になりつつ、祖父の家系の一員として他の親戚と同じく独自の教育を受けた。とりわけ数学の才能に恵まれていたため、母の実家からの口添えや援助のもと、特別に祖父の許可を得て大学院まで進学することができた。その後は祖父の意向に沿い、彼がオーナーを務める外資系金融機関にて勤務。のちに傘下のHF(Hedge Fund:ヘッジファンド)運営会社への異動辞令が出て、そこで運良く立て続けに成果を出したことでPM(Portfolio Manager:ポートフォリオマネージャー)、CIO(Chief Investment Officer:最高投資責任者)へと昇格し、ついには関連会社CEO(Chief Executive Officer:最高経営責任者)にまで登り詰めたことで本社の取締役となる。個人の安全保障の観点から、私の情報は厳重に秘匿されていたものの、この頃には私の存在は一部の業界関係者や投資家のあいだで噂になり始めていた。引き抜きの話や資産運用の依頼は多数あった。しかし、当然どれも私の一存で決めることはできず、毎回必ず本社が政治的観点を考慮して判断し返答した。祖父は、私を含めた自身の子孫を付加価値のある飼い犬へと育て上げ、それぞれに適正のある市場において番犬として上手く運用した。そうして、ときには猟犬として使役し獲物を狩ることで、国際社会における支配的地位をより確固たるものにしていったのである。祖父の飼い犬の中でも、私は一際優れた成果を挙げていた。どんどん祖父から重用されるようになったが、それと同時に親族からのやっかみも酷くなっていく。身内企業の巧妙な妨害工作によって幾度となくファンドの利益が損なわれたり、しまいには命の危険を感じるような事態にも遭遇した。が、卑劣な手段をとる者には、こちらも徹底して報復した。ファンドの資金力にものを言わせて専門家を雇い、諜報、誘惑、脅迫、買収等のグレーな手段を用いてでも、再起不能になるまで相手を追い込み、さらには上手く自社の利益に転換して勢力を拡大していった。そして気がつけば、周囲からは「次代のグループ総裁候補筆頭だ!」と称賛されるようになる。生まれて初めて言葉では表現しきれないような強い万能感に浸り、承認や支持を得ることに快楽を覚えた。

 

当時を振り返ると、愚かなこの私には資本主義社会の構造が全くと言っていいほど見えていなかった。

世の中には『流れ(Flow)』がある。その流れに従って物事が連続してなめらかに進んだとき、加速してさらに大きな流れへと波及していく。流れに逆らうと抵抗が増し、物事はスムーズに進まなくなって勢いは低下する。私の場合、これまで物事が上手く進んできたのは、たまたま先祖代々の流れに沿うことができたからだ。先祖が脈々と築いてきた資産、信用、環境、遺伝子等のおかげで、私は個人の努力や頑張り程度の陳腐な手段で資本主義社会を生き延びることができた。先祖が積み上げ起こしてきた強大な流れのおかげで、闘争や危険はあれど豊かに暮らし、小さな成功を収めることができたのだ。人間の周囲にたしかに存在するさまざまなスケールの流れの中で、個人の努力や頑張りは、ごく一部の小さな流れのほんの一要素に過ぎない。私はこのような流れの仕組みを全くもって理解できていなかった。理由はいくつか考えられる。一族の潤沢なリソースに守られながら温室の中で生きてきたせいで、平和ボケしていたのは間違いない。HF業界の熾烈な競争環境下において、たまたま運良く順調にキャリアを築けてしまったことも一因だ。親族からの執拗な妨害を物ともせず、退けるだけでなく利益転換にまで成功し、自身の万能感に酔いしれていたタイミングでもあった。いずれにせよ、自身を取り巻く流れに関係なく、自分が努力し能力を伸ばせばあらゆる成功を掴めると勘違いしていた。たとえ流れに逆らったとしても、努力すれば祖父のように資本主義社会で勝ち続けることができると本気で信じていたのだ。

誤った信仰は破滅を招く。私はこのあと起こった一連の出来事を通して、身を持って資本主義の構造的な奥深さを体感することになる。

 

事の発端は、総裁である祖父からの「資金調達のために国Xへ向かえ」という命令だった。祖父の側近が持ってきた通達文書を要約するとこうだ。「我ら一族のグループにとって大きな借りのある相手からの頼みだ。国Xにいる旧友の資産の一部を運用してやってくれ。大恩に報いる必要がある」と。私は最初、命令に対し異を唱えた。いくら義理立てする必要があると言われても、私にとってこの政治的な資金調達には2つの無視できない危険性があったからだ。

1つは、ファンド全体での運用効率低下の危険性だ。当時、主要な株価指数先物は過去20年間での最高値付近にあり、グローバル市場は堅調に推移していた。私のファンドは資金に困っていなかったし、強いて言うならむしろ少し縮小させる必要があった。通常、HFは運用資産が増えるにつれてより多くの戦略展開が必要となり運用難度が上がる。「資金流入後のパフォーマンスは低くなる傾向がある」という研究結果(Kosowski, Naik, and Teo, 2007)まであるのだ。トータルでの運用効率を悪化させないようにするためには、ファンドサイズは適切な範囲であることが求められる。そして、顧客である投資家とのコミュニケーションコストの増大と、それに付随する危険性も無視できない。HFの運営では、顧客がいる以上「客商売」としてサービス業の側面が色濃くあり、資金を投じてくれた顧客への説明責任が生じる。これが存外煩わしいのだ。何かと透明性を担保する必要があって、運用戦略等の重要情報が社外に漏れ出る危険性がある。要求や注文の多い厄介な顧客から下手に資金を預かると、結果的に運用効率の低下を招くことになり、あとから後悔しかねない。運用効率の低下を招いてしまわぬよう、投資家からの資金の受け入れは簡単にはしないのだ。

もう1つは、私や我が社の名誉、信用、自尊心を著しく損なう危険性である。私はこの「国Xにいる祖父の旧友」に心当たりがあった。大陸中央政府と強い繋がりのある、マフィアの首領だ。祖父がまだ若かった頃、財閥の後継者争いで抜きん出るために協力を仰いだのが、このマフィアの先代首領、つまり現首領の父親だった。祖父は、自分が政争を勝ち抜いた暁には彼の組織にも利のあるスキームを提案し、彼らの支援を取り付けることで巨額の事業投資において大きな成功を収めた。それを足がかりに、一族のグループ内での地位を不動のものとしていく。現首領への代替わり以降も、個人的にも組織としても互いに持ちつ持たれつの関係であり、今や両者ともアジアにその名を轟かせる組織のトップだ。そんな首領個人や彼が率いるマフィアには、戦争当事国や国際テロ組織、脅威アクター、核兵器開発国の資金源となっている噂があった。祖父と懇意にしている人の頼みとは言え、私は首領から投資を受けることに強い抵抗感があった。相手はブラックマネーも扱うと噂されているような投資家である。彼は大国から厳しい金融制裁指定を受けており、自由に資金を動かせない。だからこそ、私のファンドを介することで制裁を潜り抜け、グローバルな投資を実現させたいということではないだろうか。私がこういった類いの資金を受け入れて運用していることが業界内に知れ渡ると、大変なことになる。これまでコツコツと築いてきた信用が地に落ちるのは目に見えており、大切な優良顧客はファンドを解約し資金を引き揚げるだろう。そうなると、ファンドは首領からの出資割合が大きくなり、このような顧客への対応は往々にして厄介なことに陥りがちだ。最悪、首領の言いなりになるしか道が無くなる可能性もある。そもそも私は、自分が間接的にでも戦争やテロ行為に加担していると思いたくなかった。このような感情的理由もあり、これまでアングラな資金がファンド内に入ることを極力避けてきた。

これらの危険性を詳細にまとめたレポートを作成し、厳重に封をして祖父の側近に手渡した。1週間ほど経った頃、祖父から文書で返答があった。返事はとても短く、こう書かれていた。

「すぐに行って話を聞いてこい。これは業務命令だ」

命令ならば仕方ないかと思いつつも、念のため祖父に電話を繋いでもらって本人に直接確認した。が、それでも返答は一緒で「とにかく行ってこい」の一点張りだった。

翌週早朝、祖父の側近1名と自社スタッフ1名を伴い、祖父の自家用機で国Xへと向かった。空港に到着後はヘリコプターに乗り換え、15分ほどで木々が生い茂る山の中腹にポッカリと空いた広場のような駐機場に着陸。機内から降りて、祖父の側近に付き従い日陰になった山道を歩くこと数分、上方の邸宅へと続く、高さ4メートル、幅8メートルはあろうかという金属製の大きな正門へとたどり着いた。防犯カメラで見ていたのだろうか、数秒経ったあたりで門が自動で開き、さらに少し待つと奥の方から屈強な中年男性がこちらに向かって坂道を下ってくる。彼は我々3人の顔をよく確認したあと、「ようこそおいでくださいました、総督がお待ちです」とだけ伝え、すぐに坂の上にある邸宅に向かって案内を開始した。坂道を登った先は歴史を感じる粋な中国式の庭園となっており、荘厳な石橋が手入れの行き届いた池を跨いでいる。水辺には足元が薄っすら苔むした石灯籠が立ち並び、水面に垂れ下がる柳は初夏の風に揺れていた。橋の上を歩きながら池を覗くと、淡い色づきの睡蓮の花が浮かぶ水面下で、何匹もの鯉が悠然と泳いでいることに気がつく。どれも艶やかな模様と色合いで、形も大きさも非常に均整がとれていて、1匹1匹が陽の光に照らされまるで宝石のように美しい。私の祖父も多くの希少な錦鯉を実家の庭園で育てていたが、ここにいる鯉はそれに負けず劣らず立派だ。世界でもトップクラスの不動産価格を誇る国Xの一等地において、個人でこれだけ壮麗な庭園を抱え管理できているという事実が、これから会う人物の権力の強大さを象徴しているようだった。橋を渡り終えてすぐ、洋館手前の詰め所のようなところに2人の警備員がいる。案内人が何かを伝えると、彼らは我々3人の身体チェックと持ち物検査を行った。それが終わると、二手に分かれて両開きの玄関扉を両側から開いた。我々は館内に入って、大きな中央階段を上がり2階の廊下へと移動し、突き当りの応接室へと案内された。

「遠路はるばる、よく来てくれた」

そう歓迎してくれた首領は、天井の高い室内の中央に置かれた大きな円卓沿いの派手な1人掛けソファーの横で、可憐で美しい女性と共に微笑みながらこちらを向いて並んで立っていた。2人の存在感ある佇まいは、彼らの周囲にある豪奢だが不思議と悪趣味には感じられない調度品と上手く合わさり、まるで映画の主役を映すワンシーンのようだ。首領は老けてはいるが、強い眼力のある龍のような整った顔立ちの老紳士で、隣にいる若くて華のある女性とどことなく雰囲気が似ている。首領の容姿等の情報も事前に写真や資料で確認していたが、ここまで風格のある人物だとは思っていなかったので少し気圧され入口で硬直していると、「どうぞ?座ってくれたまえ」と笑みを浮かべたままの首領から声をかけられた。5人がそれぞれの1人掛けソファーに座ると、室外に待機していたであろう数人の家政婦が茶や軽食の類いを運び込んできて手際よくテーブルセッティングがなされていく。微笑みを崩さず私の顔を見ている首領と女性の両サイド後方には、いつの間にか2人の大柄なボディガードが控え立っていた。案内人や家政婦が部屋を出ていくと、首領が口を開いた。

「改めて、わざわざ国Xまで来てくれてありがとう。きみの祖父から話はいっていると思うが、僕の組織の資産の一部をきみの会社で運用して欲しい。諸条件について詳しく話し合いができたらと思う。そうだ、紹介させてくれ。こちらはうちの組織の財務管理を担当している、僕の孫娘だ」

首領の孫娘は、我々1人1人に対し座ったままお辞儀し、簡単な自己紹介をした。私が事前に確認した資料によると、たしか彼女はまだイギリスの名門大学に在学中で、歳は20前後だったはず。一流大学の学生とは言え、こんなに若い人物が莫大な資産を有する巨大組織の複雑な財務管理なんてできるのか、と疑問に思った。しかし彼女は組織全体の現状を正確に把握していて、各部門の資産状況と運用方針を簡潔かつ適格に説明し、さらには我々からの細かく専門性の高い質問にもほぼ完璧に答えることができた。さすがは首領の一族、ただ容姿や所作が優れているだけでなく、能力も十分あるようだ。彼女が一通りの現状を説明し、こちらの質問にも全て答え終えたあと、資金調達はついに条件交渉のフェイズに入った。プリンシパル(アセットオーナー、首領の組織)から提案された契約条件は、エージェントである我々に対し相当な譲歩が織り込まれたものだった。まず驚いたのは、運用管理報酬は最低3%保証でエクスペンスレシオに基づいて決算毎に見直し可、成功報酬はハイウォーターマーク方式ではあるがハードルレートの設定は無しで40%という、にわかには信じがたい報酬条件だった。HFの平均的な運用管理報酬は1.4%、成功報酬は16%(Deuskar, Pollet, Wang, and Zheng, 2011)であり、今回提案されたのはその2倍以上である。しかも解約条件については、ハードロックアップ2年ののち、四半期IG(Investor level Gate:投資家レベルゲート)6.25%のゲート条項へと移行、実質的に6年以上解約できない仕組みで提案された。通常、ここまで破格の条件ともなると、資金受け入れを断るエージェントはそういない。首領側は、我々に断る理由を与えなかったのだ。

「よし、いったん休憩にしようか。30分後にまたここで」

首領は笑顔でそう言い、ボディガードの1人を伴って退室した。我々に検討する猶予を与えるため、一旦話し合いを中断してくれたのだろうか。ちょうど入れ違いで入室してきた家政婦は、誰も口をつけていない冷めた茶をカップとソーサーごと下げ、再度新しいカップに茶を淹れ直してくれている。祖父の側近は本社へ連絡するため、自社スタッフはこれまでに得た情報をCIOに伝えるため、それぞれ席を外した。私は先方から渡された資料を見直しながら、淹れ直された茶に手を伸ばす。真っ青なセーブルのティーカップに注がれた紅茶は爽やかな香りで、一口飲むとそれは私が子供の頃から長年愛飲してきたファーストフラッシュにとてもよく似ており、少し心が落ち着いた。私がカップをソーサーに置いたタイミングで、先ほどから興味ありげにこちらの様子を伺っていた首領の孫娘が声をかけてきた。

「ねえ、そのお紅茶のお味はいかが?今年のイースター休暇にわたくしがグレンバーンの農園で摘んできたんです。ここ数年では最高の春摘みなんですよ!」

これには驚きを隠せなかった。その農園の茶葉こそ、私の母が生前に愛飲し、そして私もまた長年愛飲してきた紅茶だったからだ。自分の母に関しては朧気な記憶しかなかったが、使用人たちから生前の母のことを聞いていくうちに、日本ではそこまで知名度が高くない知る人ぞ知るこの茶葉を好んでいたことを知った。小さい頃の私は少しでも母のぬくもりを感じようと、この苦みの強い紅茶を無理して飲んでいたらしい。そんな思い入れの強い品をピンポイントで出された私は、咄嗟に「ああ、すごくおいしいね」というような気の抜けた返事しかできなかった。こんな偶然があるのだろうか。やや余裕を無くした私は、いったん彼女から視点を反らすためにテーブル上に目を移す。このとき、もう1つ違和感に気づいた。私の前に出されたカップとソーサーだけがセーブルなのだ。これも生前に母が好んで使っていた陶磁器ブランドで、母の形見として幼少期の私の部屋に飾られていた。もはや驚きを通り越して不気味ささえ感じる。視点を彼女の顔に戻すと、美しくも愛らしい表情のまま小首を傾げて「どうなさいました?」とやや不思議そうにこちらを見ていた。

どこまで知られている?

どこまで逆算されているんだ?

内心訝しみながらも「いや、なんでもないよ」と私が答えると、彼女はにっこり笑いながら話を続けた。

「わたくし大学でファイナンスを専攻しているんです。ファンドマネージャーとして現役でご活躍されている方にお会いすることなんて滅多にないの!数日前お祖父様にあなたが来ることを聞いて、今日がすごく待ち遠しかったわ!」

「先ほど、うちの資産運用方針のウイークポイントについてご指摘なさいましたよね。ゲーム理論の観点から、お庭の池で鯉たちが限られた量の餌を奪い合う様子を例に挙げて。お話の中で、『スケールの大きな流れに逆らうよりも、その流れに従う方がトータルでのパフォーマンスが高い』とおっしゃいましたが、さらに詳しくご解説いただけないかしら?」

「なるほど、これは発想すら無かった…つまりマーケットではただ強者であるだけではダメなのですね?ナッシュ均衡が崩れてしまうから。合理的な期待効用モデルはアセットオーナーの意思決定にどう役立てるべきなのかしら…あぁ、サマーホリデーで偶然実家に戻っていて本当に良かったわ!この時間がずーっと続けば良いのに!」

キラキラとした純粋な表情で天真爛漫に話している彼女は、自分以外の全ての人を疑う癖が根付いてしまった私のような人間にはだいぶ眩しかった。先ほど抱いた強い違和感は、いつのまにか意識の遠くの方へと流されてしまっていた。

30分ほど経ったのだろう。首領がボディガードと一緒に応接室に戻ってきて、話し合いが再開する。先ほど首領側から提案された条件に対し、今度は我々が条件提示する番だ。相手側への配慮として、社内で十分検討するために一度持ち帰るか、今ここで決断するにしても我々3人でしっかり話し合って悩んでいるフリだけでもすべきだったのだろうか。このとき、そのような相手への特別な気遣いはしなかった。我々の中での答えは、最初から決まっていたからだ。我々は、手厚いもてなしや相当な譲歩をしてくれた首領側の意図を忖度せずに、相手から提案された内容よりもさらに強気で無茶な条件を提示した。これは、首領側の破格の提案を退けること、つまり事実上の資金受け入れ拒否にあたる。どれだけ譲歩し誠意を見せてくれたとしても、相手は国際的な犯罪組織の首領であり、ブラックマネーを扱うと噂されている危険な投資家だ。先ほど首領の孫娘からの説明で知り得た組織の懐事情や、政治的意図から逆算して、ギリギリうちに依頼できないような条件を提示することで、上手く相手の方から引き下がってもらおうと考えていた。我々は、このような無茶な条件提示に至った理由を聞かれるだろうと思い、いかにも尤もらしい理詰めの回答を予め用意していたが、特に説明を求められなかった。異常な条件提示にも首領は表情を微動だにせず、相変わらず微笑んだまま私にこう聞いてきた。

「どうして僕からの投資を拒むんだい?」

私の目論見は簡単に見破られていた。しかし、こちら側も動ずることなく

「投資を拒んでいるわけではありません。頂いた情報をもとに総合的に検討した結果、このような条件での提示となりました」

「我々のファンドは現在、資金繰りに困っておりません。他からの新規提案にも同じような条件を提示しております」

と、あくまで社内のルールに基づいた上での条件提示であり、決して資金の受け入れを拒否しているわけではないのだと伝える。さすがに、噂レベルの情報を理由に投資を断ることはできなかったし、ましてや「あなたのような危険人物から資金を預かることは、我々にとって不名誉なことでそれ自体が損失だ」なんて言えるはずもなかった。こちらが提示した条件を踏まえてよく検討して欲しいと伝え、話し合いを終わらせようとしたとき。首領は最初と変わらぬ微笑みを携えながら、しかし目は大きく見開いて、私を強く凝視しつつこう言い放った。

「きみは必ずもう一度僕に会いに来て、資金を投じてくれと乞い願うことになる」

彼の顔には確信の色合いが浮かんでいた。隣にいた首領の孫娘の顔色は青白く、笑顔が消え去っていた。

 

国Xから戻って以来、首領からも祖父からも特に伝達は無かった。木枯らしが吹き荒れる頃になって、株式市場はさらに勢いづき、米国株価指数先物に至っては歴史上最高値を記録。自社ファンドも過去最高のパフォーマンスを叩き出しており、私は日々の業務に忙殺され、初夏の国Xでの一件は忘却の彼方に消え去っていた。年末は休暇を取らず、少数のスタッフと共にオフィスに籠もって、商いの薄い中、残っていた不要なポジションを少しずつ解消していった。年明けは、至急必要となったリモート環境構築とそのテストのためにほとんどの時間を費やした。

朝の冷え込みがだいぶ和らいできた頃、順風満帆だった相場が急転する。先物の空売りやロングプットで、どうしても手仕舞うことができない個別株のエクスポージャーを最低限ヘッジしてはいた。しかし、流動性リスクを懸念し大して踏み込めず、一部レバレッジもかけていたためドローダウンが発生し含み益は減少。これに感づいたからだろうか、顧客である大口投資家からのファンド解約、資金の引き揚げ要求が相次いで起こり始める。「何かがおかしい」と思ったのはこの頃だった。ドローダウンが生じたとはいえ、ファンドのストップロスルールにも引っかからない程度であり、トータルではまだまだ含み益の状態だ。しかも、解約要求のあった顧客は皆、NAV(Net Asset Value:純資産価値)確認のために会社のサイトにログインし閲覧した履歴もなければ、電話にて現状問い合わせがあったわけでもなかった。要するに、僅かなパフォーマンスの低下でいきなり複数の投資家からファンドを解約したいと言われたのである。こんなことは私が知る限り過去に一度も無かった。顧客に解約の理由を聞いても、皆一様に不安そうな顔色で「運用方針の変更で…」との返事だけだった。あからさまに目が泳いでいる担当者もいたので、「さすがにこれは何かあるな…誰かに悪い噂でも流されたか?」と思ったが、原因まではわからなかった。

「解約したい」と言われてしまっては、資金引き揚げを許可しないわけにはいかない。ハードルレートを大幅に引き上げると提案したり、解約後の再契約には再度厳しい審査があることを十分に伝えるなど、いくらか悪あがきはしてみた。が、解約を申請してきた顧客は皆躊躇すること無く、安くはない解約手数料を支払って資金を引き揚げていった。そしてファンドから資金が抜けてしまった今、現在のエクスポージャーを維持するためには、プライムブローカーからのマージンコールに応える必要が生じる。さらに間が悪いことに、マーケットではストップ安を付ける銘柄が続出し、調整と言うよりも暴落と呼ぶに相応しい様相を呈していた。米国ダウ平均は過去最大の下げ幅を記録し、たった1週間のうちに市場は全面リスクオフへと転じた。

万一このまま不履行に陥ると、悪い噂が業界内で一気に広まるだろう。投資家の解約が続出するだけでなく、プライムブローカーや自社スタッフからも見限られ、結果的にファンドを閉鎖せざるを得ない。この業界では弱みを見せたが最後、調子が良かった頃に寄り付いた多くのステークホルダーが、蜘蛛の子を散らすかの如く引き揚げはじめ、その後は一切寄り付かなくなるのだ。ファンドの存続を懸けて、顧客とブローカーへの説明対応で時間を稼ぎながら徐々にエクスポージャーを縮小、やむなくレバレッジを下げつつも、なんとかして早急に新たな資金調達を行う必要に迫られていた。

 

一度悪くなってしまった流れは、自分だけではなかなか改善することができず、その後も続く確率が高いことを、私たちは職業柄よく知っている。このとき、何となく嫌な予感はしていた。流れが悪いときに限って、嫌な予感はよく当たる(Berdik, 2012)ものだ。

 

暴落のあった週末。マーケットクローズの2日間で、現状に最適化した新しい資金調達シナリオを構築していく。クローズ前、FRB(Federal Reserve Board:米連邦準備制度理事会)議長は緊急声明文を発表し、その中で「経済は引き続き底堅いが、先行きを注視して景気を下支えするために適切に行動する」と述べ、追加利下げを示唆していた。要人発言や様々なデータを踏まえ私は、米国がQE(Quantitative Easing:量的金融緩和政策)や財政出動において迅速に先陣を切ることで、各国がそれに追随する可能性は高いと見込んだ。とりわけ主要先進国は、過去の金融危機で痛い目にあっている。それを教訓とし、どの国も躊躇すること無く踏み込んだ対応をしてくるだろう。そうなると、いずれマーケットには過剰な緩和マネーが流れ込み、相場が上昇に転じて中長期的に伸びる可能性がある、という筋書きだ。これらをもとに複数のシナリオを構築し、週明けすぐ資金調達に動けるよう準備した。

翌週、FOMC(Federal Open Market Committee:米連邦公開市場委員会)の臨時会合にて、予想通り緊急利下げが実施され、株価の下落は一服しやや反発に転じていた。下落が再開し、前回の安値を割る可能性は十分にあるが、わずかにでも時間的猶予が生じたことを幸運に思うべきだろう。この機を逃すまいと、先日構築したシナリオを引っ提げて調達業務を遂行する。しかし、ここで新たな問題に直面した。

まず最初に、親会社である祖父の金融機関が持っていた大口投資家のリストを片っ端からあたってみたのだが、誰もまともに相手をしてくれないのだ。リストの中には、これまで我が社への投資を熱望していた投資家が多くいる。ファンドサイズを適切な範囲で維持しなければならなかったため、彼らにはある意味での順番待ちをしてもらっていた。しかし、このときはどの投資家にも出資の検討はおろか、話すら聞いてもらえなかった。皆一様に渋い顔で「投資は考えていない」と頭ごなしに断ってきたのである。これには強い違和感を覚えた。どう考えてもおかしい。私に恨みを持つ身内の妨害工作というレベルではなく、何かもっと大きな力が働いているのではないか。原因を探るために、各方面の調査人員を増やした。このまま調達業務を続けても埒が明かないと思い、営業対象から祖父の金融機関が持つリストを外して、代わりに祖父の影響が少なく私個人でリーチできる組織、個人投資家まで範囲を広げ営業してみたところ、いくらか出資を得ることに成功した。だが、当然これだけでは調達目標額に遠く及ばない。やはり身内の、それも私と距離が近く私よりも影響力の強い誰かから妨害されているのか?と疑心暗鬼になる。同時に、自分がこれまで資本主義社会で生き残ってこれたのは、ただ単に祖先が築いてきた潤沢なリソース等の強大な流れのお陰だったのだと悟り、何とも言えない無力感に苛まれた。

資金調達で悪戦苦闘しているうちにも顧客からの解約は跡を絶たず、しかも危惧していた相場の下落が再開する。連日ストップ安を付ける銘柄も出てきて、サーキットブレイカーが発動。VIX(Volatility Index:恐怖指数)は急上昇、株価は乱高下しており、本来ならば利益を得る好機にも関わらず、資金不足によるリスク管理の問題で身動きが取れなくなっていた。時間は味方してはくれず、状況は刻一刻と悪化していく。悪い流れを打開できるようなまともな手段は、もう私の手元に残されていない。焦燥感に駆られながらも私は、幼い頃誰かに読み聞かせてもらったゲーテの戯曲『ファウスト』にふと思いを馳せる。悪魔と契約し、死後の魂と引き換えに超常の力を得たファウストは、手段を選ばず目的を達成(Goethe, 1808)した。物語の最後で彼の魂はどういうわけか救済を得る(Goethe, 1833)のだが、果たして私の魂はどうだろう。自分勝手で都合の良い妄想に逃避していた意識を、直視し難い現実へと無理やり引き戻す。危機的な現状を打破できる可能性のある資金調達手段が、ただ1つだけあった。昨年の初夏の記憶が鮮明に蘇ってくる。あのとき首領が言い放った言葉の意味を、嫌でも深く考えざるを得なかった。

 

久々の国Xは、以前訪れたときよりも涼しい時期、時間帯であるはずなのに、湿度が高くやや蒸し暑く感じられた。時刻はまもなく深夜に差し掛かろうとしている。首領宅に移動するヘリコプターの窓から下を覗くと、霧がかっている向こう側に薄っすらと高層ビル群や繁華街の明かりが垣間見えた。

昨日の夕方過ぎ、「緊急で首領に出資をお願いしたい」という旨を祖父の側近に伝えたところ、すぐに確認をしてくれた。数時間後、側近から「総督が直接会ってくださるとのことだ。現状に即した投資戦略の提案を用意して、明日の夕刻、前回と同じルートで国Xに向かえ」と報せがあったので、そのまま明け方まで準備に時間を費やし、一睡もしないまま今日1日の業務をこなして今に至る。寝不足のせいか頭はぼんやりしているが、自社の現状やこのあとのことを考えると、居眠りするどころか落ち着くことさえままならない。今回は私と祖父の部下の2名で向かっているため、気を紛らわせるためにくだらない話をする相手もおらず、動かない頭であれやこれやと考えてしまい不安ばかりが積み重なっていく。昨年の初夏に、こちら側の都合で実質的な資金受け入れ拒否をした手前、今さら首領は投資なんてしてくれるのだろうか。掌を返すような、礼を失するみっともない真似はしたくはなかった。が、もはや風前の灯火となってしまった我が社を救う手立ては、他には残されていない。しかし、たとえ資金調達に成功しこの場を凌いだとしても、あとから大きな問題にぶち当たることになる。契約の相手はアジアの裏社会の頂点に君臨する組織の長だ。業界内における我が社の信用は…戦争やテロの片棒を担ぐことになるのか…成果が出なければ最悪消されることも…自問自答の果てに酷く陰鬱な気持ちになりながらも、昨年首領が言い放った言葉の意味を考えてしまう。首領は、いつか私が現状のような八方塞がりの窮地に陥ることを確信していたに違いない。一体どうやって…などと、とりとめもなく考えているうちに、乗っていたヘリコプターは首領の邸宅付近の駐機場へと着陸した。

邸宅へと向かう道中、昨年訪れたときと同じ経路で敷地内の庭園を通り抜けていく。季節や時間帯が異なるせいか、以前来たときに感じた壮麗さとは打って変わって、どことなく不気味さを覚えた。石橋に沿って立ち並ぶ石灯籠には火が灯され、その灯火が私の進むべき道筋をぼんやりと照らし、暗闇の中で朧気に浮かび上がらせている。石橋の上は水面が近いからか湿気が強く、どんよりとしていて空気が重い。池に浮かぶ睡蓮はどれも花を閉じており、まるで暗闇の中で滅ぶことを恐れ花弁同士が身を寄せ合っているかのようだ。突然のバシャバシャッという大きな水音に驚いてそちらを見ると、水面が大きくうねりながら波打ち、池全体に絶えず波紋が広がっていた。鯉たちが水面に落ちた虫にでも食らいついたのだろうか。満月の光に照らされた青黒い水面下で、多くの鯉が激しく一方向に動いている気配を感じる。暗くて1匹1匹の姿形は見えないが、水中で所狭しと魚群がひしめき合っているであろうその様子は、まるで巨大な生け簀のようだった。橋を渡り終え、洋館入口で身体チェックと持ち物検査を受けたあと、祖父の部下は館内1階のどこかへ、私は2階のとある一室へと案内された。

案内人の背の高い男性は私を部屋の中に入れると、「総督、お見えになりました」とだけ伝え、そのまま部屋から出ていった。

「少しだけ待ってくれ」

ポツリとつぶやくようにそう言った首領は、部屋の一番奥、入口に向けて配置された大きな木製デスクで、スタンドランプの淡い光に照らされた手元に集中して、書類に何やら書き込んでいる。ここはどうやら執務室のようだ。室内は、ダークブラウンを基調とした重厚感のある家具に囲まれ、全体的にどっしり落ち着いた雰囲気が漂っている。左右の壁には、天井近くまで伸びた本棚が整然と並び、ぎっしりと古めかしい革表紙の本が収められていた。床には、細かく幾何学模様の入ったえんじ色の厚手の絨毯が敷かれており、足音を完全に吸い込みながらも歩きにくさを感じさせない。天井には太い梁が堂々と横たわり、中心に設置された豪華なシャンデリアの灯りは薄暗い部屋全体を緩く照らしていて、どこか影のある空気感を漂わせている。「ふう」と息をついた首領は万年筆をデスクに置いて、

「やあ、待たせたね。既に話は聞いてるよ。資金が必要なんだって?」

と言いつつ、以前と変わらぬ龍のような整った顔に微笑みと好奇心の色を浮かべながら私の方を見た。私が発言しようと口を開いた瞬間、彼は左手を斜め上に出してこれを制止し、そのままこう続けた。

「いいよ、投資してあげよう。ただし、昨年提案した条件にいくつかの変更と追加がある」

首領から「僕の好きなタイミングで解約、資金引き揚げできるようにしてくれ。もちろん解約手数料は支払う」と、ファンド解約条件の大幅な変更が言い渡される。さらに追加された条件には、私個人の行動を監視、制限するものがいくつか含まれていた。これくらいの要求は当然だろう。以前であれば交渉の余地はあったが、今の私はNoと言える立場に無い。覚悟はしていたが、これで本当に首領の言いなりになるしか道は無くなった。私が現実を受け入れているあいだにも、首領からの淡々とした条件提示は続いていく。ここで1つ奇妙だったのは、我々が預かった彼の資金を市場に投ずる際、ある特定の銘柄にポートフォリオを集中させるよう具体的な指示を受けたことだ。

「今週から来週末にかけて、市場は本格的な暴落に見舞われる。あとでうちの部下がきみに伝える銘柄を、それぞれ指定した日時に決まった量で買っておくんだ」

たしかに市場はまだまだ下落基調だ。しかし、何を根拠にここまで具体的な指示を出せるのか。私が疑問に思っていることを伝えると、彼は笑顔に支配の色合いを浮かべながら

「きみに選択権は無い、ただ僕を信じて言われた通りにするんだ。僕がこう指示した理由をきみが知ることは無いだろうけど、損はさせないから安心したまえ」

とだけ言い放ち、それ以上の言及を許さなかった。

我が社にとって不利な契約条件の提示が続く中、運用報酬については昨年提案された内容とほぼ同じ、破格の条件のままであった。これにも強い疑問を覚えた。首領は、今となっては我が社に無報酬での運用さえ要求できる立場にある。彼は、私のファンドを介することで大国からの経済制裁を潜り抜け、効率的な投資を実現させたいはずだ。なのに、どうしてここまで高額な手数料を支払うのか?これでは首領の組織へのリターンが薄過ぎる。私が不思議に思っているのを察したのか、首領は条件提示を中断し、微笑みながら「きみは疑り深いね。昨年と同じ報酬条件なのが、そんなに意外かい?」と聞いてきた。私が疑問に思ったことを包み隠さずそのまま伝えると、彼は「なんだそんなことか。いいよ、教えてあげよう」と笑いながら驚くべきことを言った。

「そもそもの話なんだけど、僕は自分たちの資産を増やすためにきみの会社に投資したいのではないよ」

は?

ではどうして?

「おもしろいからだよ」

「いや、単純に興味深いからだよ。僕が資金を投じたとき、人々や社会がどう動くか。きみがどう反応してどう行動するのか。それを観察して愉しみたいだけなんだ。大した意味なんて無いよ」

首領は屈託のない笑顔で、呆然としている私にそう伝え、さらには

「僕はね、別に不必要にきみを苦しめたいわけじゃないんだ。もちろん調教のために飴と鞭は必要だよ。でも鞭打つだけだとサスティナブルじゃないよね。僕は自分の庭の鯉にはちゃんと自分で餌を与えるし、躾もしている。僕が不在のときは庭の管理人がしているけど、ここにいるときは基本的に僕が鯉の世話をしているんだ。自分でやらないと、鯉を飼うおもしろさがわからないからね。これと同じだよ、愉しみたいからやっているだけだ。第一よく考えてみてよ、僕が単純に資産を増やしたいだけならきみに頼む必要は無いし、もしきみに頼まなければならないにしても、わざわざお互い時間をとって僕たちが直接会う必要なんか無いよね?お互い部下に任せれば良いんだから。じゃあなんで僕はきみに直接会ってこうやって話をしているのかって?おもしろいからだよ!」

と、満面の笑みでこう言ってのけた。この人は、富や権力や地位を得たいというような、わかりやすい目的のために行動しているのではない。資本主義社会の中で、富や権力、地位というわかりやすい餌を撒き、それによって人々がどう動き、どう駆け引きして、どう感じるのかを鑑賞することに興じたいだけなのだ。これを、まるで池の鯉が我先にと餌を奪い合う滑稽な様子を愛でるかの如く、趣味の一環として気軽に楽しんでいる。私は、彼の物事に対する価値観の違いに驚愕していた。が、それと同時に深く安堵してもいた。不条理で厳しい契約条件のもと、大きなペナルティを伴う過酷なパフォーマンス追求を強いられるのではないかと恐れていたからだ。ここに来る道中、私は最悪死ぬことを覚悟して、我が社が存続できる道を考えていた。だからこそ、首領の物言いや考えの軽さを目の当たりにして、過度な心配は無用だったのだと悟り胸をなで下ろしホッとした。杞憂に終わったかに思えたそのとき、

「それと、大事な契約条件がもう1つ」

首領の穏やかな微笑みが一瞬で獰猛な笑みへと変化し、顔に強い好奇と嗜虐の色が浮かび上がる。

「日本では、反社会的組織の一員がトップへの忠義とその覚悟を示すために、身体に刺青を入れる文化があるんだってね。それを僕と僕の組織のためにやってくれ。永遠の忠誠を誓うんだ。絶対に裏切ってはいけない。期待に応え続けろ。失敗は許さん」

このとき、何を言われたのか理解が追いつかなかった。そんな私をよそに、首領はさらにこう続ける。

「刺青の柄は鯉と睡蓮だ。うちの庭園に睡蓮の植えられた池があるだろう。あそこで飼育しているのは、昔きみの祖父から分けてもらった日本の錦鯉なんだ。上手く繁殖して150匹ほどになったかな、どれも流れに逆らわず泳いでいてとても従順だ。しかも利口で宝石のように美しい。特別に、きみの身体に僕の庭の鯉と睡蓮の柄を刺青として彫る許可を与える。そしてきみも僕に飼われるんだ。きみの祖父から許可は得ている」

「きみはこれから数年かけて、激痛に耐えながら少しずつその身体に組織への忠誠心を刻み込んでいくことになる。今後1年に数回はここに来て、資産運用の状況を報告するとともに、身体に刺青が彫られていく過程を逐一見せるんだ。もちろん、その時々できみがどう思い、どう感じているのかを詳細に聞きたい。これらの一連のやり取りを、僕ときみの祖父、ひいては我らが母なる大陸への信仰の証としてもらう」

私は鞭打たれたかのように、口も開けないままその場で硬直していた。いつもの穏やかな微笑みに戻った首領は、最後に私をからかうような顔色でこう言った。

「『スケールの大きな流れに逆らうよりも、その流れに従う方がトータルでのパフォーマンスが高い』だったかな?昨年、きみが僕の孫娘に教えてくれたことだよ。名言だね。そして今この場では、そっくりそのまま僕からきみへのアドバイスだ。なんだかドラマティックな展開だね。良好なパフォーマンスを期待しているよ」

資本主義においては常に、選択肢の少ない者が弱くなる。他に手段の無い私は「はい」と答え、首領の命令に従うことしかできなかった。

首領との話が終わると、私は彼の部下によって別室へと案内され、今後のことについて詳細な説明を受けた。全ての説明が終わる頃には明け方になっていて、空が白み始めたことで窓の外は青みがかり、遠くのほうから鳥の鳴く声が聞こえてくる。疲労困憊の私は、帰途につくため重い身体を引きずるようにして洋館入口へ向かった。中央階段を降りている途中、ふと誰かの視線を感じ見上げると、そこには寝間着姿の首領の孫娘がいた。つい今しがた私が通った階段上の廊下から、能面のような表情でこちらを見下ろしている。一瞬だけ視線が合ったが、彼女はすぐに目を逸らし、顔を私の方から背けてこう言った。

「昔から、お祖父様の言うことは必ず実現しました。あなたは理由なんて考えずに、疑うこと無く、ただお祖父様に言われた通りやれば良いんですよ。あの人が生み出す強大な流れは、あなたごときが逆らえるようなものではない」

そう忠告してくれた彼女の美しい横顔には、以前の朗らかで天真爛漫な微笑みとは打って変わって、冷ややかにこちらを蔑みつつもどこか憤りを感じるような色合いが浮かんでいた。彼女は愚かな私を直視しないように、こちらを向くこと無く去っていった。

 

祖父の側近と合流して、自家用機で国Xを発ち自社オフィスに戻るまでの道中、CIOと電話ミーティングを行う。首領から具体的な投資指示を受けた内容については、彼を疑うつもりは無かったが、裏取りをするためにアナリストを手配して細かい情報を集めさせることにした。そのまま、数時間後に迫るプレオープニングセッション以降のシナリオの最終調整に入る。契約書など各種書類の準備をバックオフィスに指示し、自社の各ファンドを担当するPMそれぞれに最新の資産状況と投資戦略を伝えるため、レポートを作成し送信しておく。さらに私は、契約している複数のプライムブローカーの担当者に片っ端から電話をかけていき、繋がった先から順に「資金調達が完了した」と伝え、大まかな取引方針を伝えていく。オフィスに到着する頃には、首領の組織の銀行口座から我が社の口座へと、所定の送金が完了していた。社内の資産状況をリアルタイムに確認できるアプリで、その着金額を目にした瞬間、アドレナリンが体中を駆け巡る。2日連続の徹夜など、細かいコンディションの良し悪しはもはや関係ない。私の頭は冴え渡り、思考は水を得た魚のように滑らかに流れていた。

その日以降、首領が言っていたように市場は全面リスクオフとなり、主要株価指数は連日大幅に下落した。取引画面上には、未だかつて見たことが無いほどの前日比マイナスのパーセンテージが並んでいる。どの新聞やニュースチャンネル、ブルームバーグターミナルのIBチャットにおいてさえ総悲観の情報が飛び交い、どれも金融市場が過去に類を見ないほどの危機的状況に直面していることを示していた。市場が歴史的な暴落を記録し、多くの投資家がリスク回避の姿勢を強める中、我々のファンドだけは真逆の行動を取る。首領からの資金注入でブローカーからのマージンコールを退けただけでなく、首領から指定された銘柄や元々保有していた商品をどんどん買い増し、エクスポージャーを拡大してレバレッジを引き上げていく。証券取引所を介すると効率良くポジションを構築できない場合は、私も含めた社内外の人脈を最大限活用してOTC(Over The Counter:相対取引)で市場外からかき集めた。その間、相場は下落基調が続いていたため、当然のことながらポジションを積み重ねるごとに含み損も大きくなる。ミーティングの際、リスクマネジメントチームのスタッフが「これ以上の評価損は社内のリスクガイドラインに抵触する恐れがあります!」と悲鳴のような声を上げ、エクスポージャーの縮小を強く訴えてきた。が、私とCIOはなんとかこれを宥め、PMたちの猛反対を押し切り、トップダウンで着々と買い下がらせていく。この一件で、社内には「うちのCEOはついに頭がおかしくなった」という噂が広がり批判の声が高まったが、実質的にシングルストラテジーへと移行したことでシナリオ遂行が容易になったので、私は気にも留めていなかった。むしろこのとき気になったのは、社外からの反応だ。奇妙なことに、日に日に含み損が膨らんでいたにも関わらず、ブローカーや顧客からの批判はほとんど無かった。いつもならマージンコールの不履行を恐れストップをかけてくるはずのプライムブローカーの担当者は、何故かさらに商品購入をオファーしてくる。投資銀行が、レバレッジ規制でこれ以上我が社に証券を売れないとなると、今度はスワップ契約でポジションの権益だけを移転するデリバティブ、TRS(Total Return Swap)の購入を提案してきた。たしかにこのスワップスキームを用いれば、証券の購入はブローカー側の自己勘定取引とみなされる(Dufey and Rehm, 2000)ので、我が社は規制当局の監視の目を掻い潜り、実質的にさらなるポジションを積み上げることが可能である。しかし、レバレッジ規制を回避してエクスポージャーを拡大すれば、当然その分、事前にシナリオ内で想定される期待損失も大きくなる。私の当てが外れファンドが損失を被った場合、ブローカーや顧客共々道連れだ。今まさに拡大している評価損など、わかりやすい危険性があるにも関わらず、ブローカーはさらなる取引を促し、顧客からは何の指摘も問い合わせも無い。それどころか、追加でさらに投資したいという既存客や、新たに出資したいという新規の投資家まで現れる。

一体どういうことだ?

リスクオフが進行している厳しい市場環境下で何故?

首領からの資金調達前は誰もがそっぽ向いてたのに、どうして今になって寄り付く?

蓄積した寝不足と疲労のせいか、頭の中では次から次へと無駄な疑問が湧き上がるが、明確な答えはわからない。可能性として考えられたのは、首領や私の祖父のように強大な影響力を持つ誰かが、何かしらの手段で裏から手を回していたことだ。よく考えてみると、今年に入ってから実行した資金調達では、普段とは異なる不審な点がいくつも見受けられた。とりわけ、私は首領との一連のやり取りの中で、所々に祖父の意図が垣間見えたことが気になる。

祖父は、過去に首領の組織から受けた『大恩に報いる』ため、私という飼い犬の所有権を一部首領に譲渡しようとしたのではないか?

首領は国Xの豪邸に私を招き、祖父から入手した私の過去の情報に基づいて、あらゆる面で良くもてなして、懐柔しようとしたのではないか?

だが、私が素直にその流れに従わず抵抗したため、祖父と首領は結託し私を窮地に追い込んだのではないか?

そして他に選択肢が無くなった私は、自らの意志で首領に従順な『飼い鯉』と成り果てたのではないか?

私は自分自身の力で必死に活路を探しているつもりであったが、その実、最初から最後まで祖父や首領の掌の上でシナリオ通りに転がされていただけではないか?

私にとって大変理不尽な話ではあるが、このように残酷で美しいシナリオを想定すると、これまでの全ての物事の辻褄が合う気がした。自身が酷く翻弄されてはいるが、「ここまで完成度の高いシナリオが現実に存在し、私を巻き込んで実際に機能しているとしたら…」と思うと、何とも言えない喜びに似た感動が込み上げてくる。完璧な因果関係が存在すれば、強い納得感が生まれる。資本主義の深淵に触れ、構造的な奥深さを垣間見た気分になれる。

しかし、実際のところどうなのか、真実は今の私にはわかりようが無い。因果の後付けで作り出されたシナリオは所詮、妄想の産物だ。私が納得感という快楽を得たいがために、知的好奇心に操られて身勝手な因果の接続と補完をした、個人的憶測に過ぎないのだ。「どうせ理不尽なのであれば、せめて完璧であってくれよ」と思う自分にとってだけ都合の良い、後付けの解釈に過ぎない。後付けである以上、私が勝手に妄想したその美しいシナリオは幻だ。私が「どうかあって欲しい」と願うが現実には存在しないような、悲しいほどに完璧な世界(ティカ・α, 2016a)のお伽噺なのだ。現実は痛くて恐ろしい。だからせめて、妄想の世界に浸っているあいだだけでも、美しいお伽噺の続きを見たくて(Hosomi, 2004)仕方なかった。だがこのあたりにて、自分勝手で都合の良い妄想に逃避していた意識を、直視すべき現実へと無理やり引き戻す。今さら納得感を得て麻薬的快楽に耽ったところで、過去は変わらず時間も味方してはくれない。流れに沿うこともできない。

 

私たちは職業柄、現実の物事には多くの人が考えているほど強い因果関係が無いことを理解している。そして、完璧で美しいシナリオなどほとんど存在しないこともよく知っている。何事にも強引に因果関係や明確な理由を見出そうとし、納得感を得て気分良くなろうとするのは人間の悪い癖だ。納得感の快楽に囚われると、バイアスが強くなる。自分勝手に事象を歪めて都合良く解釈してしまい、最終的には破滅へと至る。現実のほとんどの物事は、多くの人が思うよりも遥かに結びつきが弱く、ずっと偶発的でデタラメだ。尤もな理由なんて無いことの方が多い。現実にあるのは、人知を超えたカオス理論と運に支配された悔しいほどに明白な世界(ティカ・α, 2016a)における、厳然たる事実だけなのだ。資本主義においてトータルリターンを追求し生き残りたいのであれば、短期的な快楽に別れを告げ、今たしかにすぐそこ、眼前に流れている事実を見るべきだ。

寝不足と疲労による妄想めいた議論から帰還したばかりのボケた頭では、まだ手元足元にあるすぐ側のものは見えなかった(Hosomi, 2004)。しかし今、明確な事実としてはっきりとわかっていることが1つだけある。それは、流れが変わったことだ。社外からの反応を見る限り、首領からの資金調達の前後で私を取り巻く流れが変わったのは明らかだ。私は都合の良い妄想にふけることを辞めて、この事実だけに着目した。これは千載一遇の好機である。リスクを許容し、踏み込むべき局面だ。思考する必要は無い、身体が覚えている。私はこの機を逃すまいと顧客からの出資をどんどん受け入れ、さらにエクスポージャーを拡大していった。

 

翌週も市場は全面的に続落し、米国市場では今月3度目のサーキット・ブレーカーが発動。市場ではパニック売りが継続していたが、それでも我が社は買いの手を緩めず、事前に用意していたシナリオ通りに、一定のペースで特定銘柄を拾い続ける。そんな中、米国で臨時のFOMCが開催され、FRBがさらなる緊急利下げに踏み切った。これを皮切りに、各国中央銀行はFRBに追随する形で足並みを揃えてQEを実施する。日本でも金融政策決定会合が前倒しで開催され、ETFやJ-REITのさらなる積極的買い入れや、CP(Commercial Paper:短期償還型の無担保約束手形)や社債購入枠の設定を中心とした市場安定化策が講じられた。さらに、ECB(European Central Bank:欧州中銀)やBOE(Bank of England:英中銀)など複数のハードカレンシー発行体も合わさって協調し、自国内の市中銀行に米ドルを安定供給するための枠組みが拡充される。これは通常の通貨スワップ協定とは異なり、各国市中銀行が自国の中央銀行を通して直接FRBから米ドルを借り入れることができる、実質的な『制限付き米ドル建て量的緩和』であった。資金調達前に想定していた通り、どの国も躊躇すること無く踏み込んだ対応をしてくる。マーケットには過剰な緩和マネーが流れ込むだろう。こうなってくると、相場は近日中に底入れし、そこから上昇に転じる可能性が高いはずだ。運良く資金調達は順調であり、反転するまで持ちこたえられるだけの余力はある。

翌日もさらにその翌日も、相場は著しい流動性の低下によって激しく乱高下しながら、奈落を目指し暴落を続けている。我が社の各ファンドでは、私がこの業界に入って以来最大の評価損を記録していた。報道機関はまるでこの世の終わりかのように悲観的な経済ニュースを乱発し、各国の踏み込んだ対応にも関わらずすぐに相場が下げ止まらなかったことを受け「金融政策の効果は薄い」としている。スタッフのあいだではそれに同調するかのように諦めの空気感と沈黙が広がった。誰もが皆「もうダメだ」と絶望し、呆然としている。そんな状況下においても、私の気分は不思議と落ち込んでいなかった。池の中、水中にいるかのように周囲のノイズが耳に入らない。言葉で説明するのは難しいが、時間と空間が溶けて流れているかのようで、心は澄み渡り、とても静かで落ち着いていた。もはや思考すらしていない。ただ、連日の暴落の流れに沿って、深く深く水底へと潜るように買い下がっていく。一時のうちに永遠を感じ(Blake, 1863)ていた私は、冷静かつ無垢に、予兆が現実へと、想定が確信へと変わる瞬間を待った。

 

相場は数日後に底入れとなった。翌週の中頃には世界中の株式市場が大きく上昇に転じ、その後数ヶ月で主要株価指数はそれまでの暴落が無かったかのように、V字回復するかの如く値を戻す。我が社のファンドは、首領からの資金注入とまるで未来を予知していたかのような的確な指示のおかげで、リバウンドによる上昇の流れを上手く捉えることができ、私のキャリア史上最高のリターンを叩き出すことに成功した。祖父がオーナーを務める複数の企業の株価は、どれも暴落前の水準を大きく超えて急伸し、これらの銘柄を大量に買い集め保有していた我が社はその恩恵を存分に受けた。首領から仕込みを指示されていた銘柄は1つの例外もなく全て暴騰し、とりわけ、果物か何かの会社:some kind of fruit company(Zemeckis, 1994)のリターンは凄まじかった。

資金調達後の1年間で、我が社のステークホルダーからは、未だかつて無いほどの称賛を受けた。社内のスタッフからの支持は熱く、相場が反転する前は私のシナリオを強く否定していた多くの者たちも、掌を返すように「私たちはCEOを信じていた!」などとのたまっている。社外からの反応も明確に変わった。首領からの資金調達前、我が社のファンドを解約したり、私からの出資の懇願を頭ごなしに断った投資家も態度を一変させて、今度は向こうからすり寄ってきた。これは、実に興味深い構図ではないか。首領は私からの掌返しを目の当たりにし、私は一部のステークホルダーからの掌返しを目の当たりにした。この滑稽でみっともない掌返しの連鎖に、資本主義の構造的奥深さがある。首領、私、一部のステークホルダーの3者は、同じ物理空間に存在しながらも、同じ階層にはいない。私は生き残るために、諸々のリスクを承知の上で、首領という自分よりもスケールの大きな流れに従った。一部のステークホルダーはパフォーマンスを追求するために、風見鶏のような見苦しい振る舞いをしてでも、私という自分たちよりもスケールの大きな流れに同調した。いずれも、目的を達成するために、なんとかして自分の流れをよりスケールの大きな流れに合わせようとしている。資本主義社会にエントリーして、脱落せずに生き残り、上を目指し続けたいのであれば、スケールの大きな流れを捉えそれに従うことが重要だ。人間の処理能力の限界を鑑みれば、そもそも無限の可能性など存在せず(Simon, 1947)、取るべき選択肢はごくわずかで限られている。

私はこれまで、生け簀のように流れを管理された小さく狭い世界で生きてきたため、資本主義下における流れの仕組みを全くもって理解できていなかった。流れなど関係なく、個人の自由意志のもと選択肢は無数にあり、自分の努力だけで何でもできるし何者にでも成れるという誤った信仰を抱いてきたのだ。その結果、生け簀で養殖された外界を知らぬ鯉が、努力をすれば資本主義社会の龍になれると信じて、滝を登るように強大な流れに逆らって死にかけた。この代償は大きい。ブラックマネーを扱うと噂されている首領の資金をファンドに受け入れた以上、今後様々なリスクに晒されるだろう。数年間にわたる激痛を伴う施術により、この身に刻まれた鯉と睡蓮の刺青は、私が首領の飼い鯉として彼を信仰の対象とし、彼の率いるマフィアの一員となって組織に忠誠を誓った証である。首領は、池の鯉が我先にと餌を奪い合う滑稽な様子を鑑賞するかのように、私が酷く悩み葛藤した末にやむを得ず掌を返してくる無様な姿を観察していた。おそらく今後も彼は、道楽のように私に対して餌と試練を与え翻弄するだろう。であれば私は、必死になって餌に食らいつこうと悪戦苦闘することで、彼に良質な娯楽を提供し興じさせ続けなければならない。

これからの私の人生の見通しは悪く、一寸先は闇となってしまった。今回の資金調達はあくまでその場凌ぎの延命であり、問題の先送りでしかなく、所詮は寿命の前借りだ。それでもまずは今日を全力で生き残り、明日へと繋ぐしか道は無かった。私たちはいずれ、全てのツケを支払うことになる。その時がくるまで、『スケールの大きな流れに逆らうよりも、その流れに従う方がトータルでのパフォーマンスが高い』という、自身の経験に基づき培われた哲学をより一層深めていくことにする。

 

「イスラム組織ハマスの最高幹部がイランの首都テヘランで殺害されたことについて、イランはイスラエルがこれを実行したと断じ、報復を宣言しました。これを受け、米国務長官はG7外相に対し、シーア派組織ヒズボラが早ければ24時間以内にイスラエルへの攻撃を開始する可能性があると伝えたことで、関係国などが対応に追われ…」

待合室で流れるニュース番組のVTRでは、激しく空爆されたガザ地区が映されていて、映像の中でパレスチナ人女性が、イスラエル軍の攻撃で命を落とした家族の手を握りしめながら泣き崩れている。私はテーブルの上に置いていたペットボトルの紅茶の封を切り、口をつけた。過去の暗澹たる記憶から逃れるように、いつの間にかうたた寝していたようだ。同行しているスタッフの1人はイヤホンをつけてノートパソコンを開き、何かのWeb会議に参加している。彼らの様子を見る限り、まだ搭乗案内されていないらしい。ソファと身体の隙間に滑り落ちていたタブレット端末を拾い上げ、途中まで目を通していたアナリストからの報告の続きを読む。報告書が添付されたメールの最後には、「今回の原油先物取引もCEOの想定していたシナリオ通りになりましたね、さすがです!」と、何の悪気もなくリップサービスのように軽い称賛の言葉が記されていた。

これまでの経験で、間違うことに慣れる方が楽になれる(ティカ・α, 2016a)ということを痛感してきた私たちからすると、短期的かつ表面的で、局所的な正解を得たことに対するこの小さな称賛でさえも、なんだか恐ろしく気分が悪かった。資本は死せる労働である:Das Kapital ist verstorbene Arbeit(Marx, 1867)と指摘されるように、矛盾と間違いだらけの資本主義社会において、部分的に正解し承認や称賛、支持を得ることで快楽を感じる身体になってしまうと、致命傷を負いかねない。だから私たちは、褒められることが怖くて苦手だ。自分たちの間違いを素早く認め、否定や非難、批判を即座に受け入れることでしか、救済は得られない。全体を俯瞰すると自由意志など皆無に等しい予定調和の世界(Leibniz, 1686)において、強大な流れに翻弄されながらも、生け簀の鯉として滑稽に資本主義社会を泳ぎ続けるしかないのだ。

「ただいま搭乗の準備が整いましたのでご案内申し上げます。お忘れ物がございませんよう、どうぞご確認ください」

ノックして待合室に入ってきた案内人が、我々に搭乗開始を報せた。私はタブレットや飲みかけの紅茶のペットボトルをカバンに入れ、鍵を閉める。さて、3ヶ月ぶりの国Xだ。首領宅の池の睡蓮はまだ見頃だろうか。

私は、首元までボタンを留めた長袖のシャツの中、アンダーウェアの下で胸に咲く睡蓮の花のように清らかな信仰心で救済の訪れを祈りながら、何も知らずに腕と背中で滝を登る3匹の鯉とともに、資本主義という巨大な生け簀の中を流されていく。